原爆投下直前

8月6日の朝

この日、当時広島に住んでいた人々はまた何も代わることのない毎日を過ごすように、朝から働き始めていた。

当時の広島にはここで働いている労働者、徴用工、女子挺身隊、及び勤労動員された中学上級生達など、三菱重工や東洋工業を初めとする数銃の軍需工場での作業に明け暮れている日々だった。市内の尋常小学校では集団疎開で街から離れている児童も多かったが、下級生児童は市内に留まり、各地区の寺子屋学校での修学に励んでいた。修学以前の幼児は自宅に留まっていた。

前日の夜中には空襲警報が2回発令されたことで、市民はその都度防空壕へと避難していたため、寝不足の市民も多かったという。また、この日は市街中心部では米の配給も行われており、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んでいた。

運命の朝、その日一度は警報が発令されたものの、何事もなくB-29は通り過ぎたために、市民はその日一日の活動を再び始めようとしていたが、その日々はその瞬間を持ってピリオドを打たれることになる。

!さよなら原発!

爆心地

爆心地となっている島病院、500m圏内では閃光と衝撃波が同時に襲う。巨大な帷幕風圧があらゆる建物をなぎ払い、鉄筋コンクリート建築であった産業奨励館は一部の外壁を残して大破するなど、あたり一面を焼け野原へと変えてしまうのだった。

爆風と同時に来る強烈な熱線を浴びた人は、内臓組織に至るまでの全身の水分が蒸発・炭化してしまい、道路には遺体の山が築かれることになった。爆心地を通過していた路面電車は、炎上したまま遺骸を乗せ、慣性力で暫く走り続けていたという。つり革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいたといわれている。これだけの威力を持った原爆のため、生存しているほうが逆に奇跡であるため、投下直後は一寸先も見えない闇の世界だったといわれている。元史雲と爆風で舞い上げられた大呂の粉塵が太陽光を完全に遮断していたため、このような現象が発生した。この闇の中で高温に熱せられた木造建築物などの発火が始まり、辺りが地獄絵図と化し始めていく。

生存者 野村英三

地獄の中、この爆心地での生存者として広く知れ渡っている人がいる。広島県燃料配給統制組合の野村英三さんだ。野村さんは核爆発の瞬間に燃料会館の地下室で書類を複数人で捜しに入っていたために難を逃れることが出来た。この時、燃料会館は爆心直下の島病院や産業奨励館の直近170mに位置していたため、もしもこの時地下室での作業でなければ、彼の命もなかっただろう。彼の証言によると、この燃料会館からの脱出に成功したのは8名いたが、その後の消息は現在でも不明であるといわれており、事実上生存を確認できたのは野村さんただ一人ということになってしまっている。野村さんは脱出後、その後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面に命からがら逃げ延びるも、放射線の急性症状である高熱・下痢・歯茎からの出血を発症して生死の境を彷徨うことになるものの、奇跡的に一命を取り留めることとなる。その後被爆患者として長い間苦しむことになるが、爆心地の上京を詳しく知る唯一の証言者として、彼が見て、感じた音・光景はその後の爆心地の状況を知る貴重な情報として、現在も語り継がれている。

荒野圏内

しかし野外にいたからといっても、運良く塀や建物などの遮蔽物の陰にいたものは直接熱線を浴びることは避けることは出来たが、そうでないものは熱線を受けた部分に関しては一瞬にして重度の火傷を負うことになる。野外では作業中だった勤労奉仕市民や中学生・女学生などは隠れる暇もなく大量の熱線を直撃してしまったことで、勤労奉仕のために訪れていた学校の生徒が全員死亡しているところも多かった。熱戦だけでなく、その後の爆風によって最大で数十メートルまで吹き飛ばされることもあり、地面や構造物に強く叩きつけられて昏倒するものもいた。爆風はさらに屋外にいた者達の衣服を剥ぎ取ってしまい、裸になってしまう者も多かった。このため、体に多大なダメージを負う者が続出していき、中には内臓が出ているものもいたという。

建物内部にいたものは熱線の直撃は避けることは出来ても、強力な放射線から逃れることは出来なかった。また次の瞬間に襲った爆風によって、爆心地より2km圏内の木造家屋は一瞬にして倒壊してしまい、中にいた人たちは閉じ込められてしまう。自力で脱出したもの、もしくは他者に助け出されたものの他に、熱線により起こった家屋の火災に巻き込まれて焼死してしまう。鉄筋コンクリートの建物内いたものの多くは、爆風で吹き飛ばされたガラスや建築などの破片が頭に突き刺さり、そのままの状態で避難の列に加わるものもいた。避難民のほとんどが水と安全なところを求めて、市内を流れる川へ避難を始める。

被爆救援活動

広島市の行政機関は市の中央に集中して、爆心地の近傍であったために、家屋は全開全焼してしまい、職員のほとんどが死傷してしまい、被災直後は組織的な能力を失っていた。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も同様に機能を喪失していた。

市内の爆心地からやや遠方にあった宇品港の陸軍船舶司令部隊の被害が軽かったため、この部隊が救護活動の中心となる。船舶司令部は直ちに消化艇を派遣して大火災をおこした河岸部の消火活動を始めた。特に河岸部の病院施設は鎮圧まで消火し、そこを救護活動の橋頭堡とした。

陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千に及ぶことになる。また原爆の被災者は広島湾に浮かぶ似島の似島検疫所にも多く送られている。その数は1万人上っているといわれている。この船舶練習部以外にも市内各所に計11ヶ所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称して、救護所は最大で53箇所にまで増加するほど治療を必要としている人が多かったことを証明している。

原爆による死亡者

爆心地から500m以内の被爆者では即死、及び即日死の死亡率が約90%をこれ、500mから1km以内での被爆者では即死、及び即日死の死亡率が約60&から70%に及んだ。さらには生き残った人でも7日目までに死亡する人が約半数、次の7日目でさらに25%が死亡していく。

11月までの集計によると、爆心地から500m以内での被爆者は98から99%が死亡することになり、500mから1km以内の被爆者に関しても、約90%が死亡と、これまでに経験したことのない死者の数を記録することになるのであった。その年の8月から12月までの被爆死亡者数は、9万ないし12万人にまで及んでいると考えられている。

リトルボーイ

広島に投下した、人類が始めて核兵器として用いることになった唯一の兵器だ。

全長3.12m、最大直径0.75m、総重量役5tとなっている。ウラン235を用いており、二分されたパイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を火薬の爆発力でもう一方のウラン塊をぶつけることで、臨界点を超過させて起爆とするガンバレル型となっている。この構造は核兵器の一般的な構造をしている。

開発されたウラン50kgのうち、1kgが核分裂反応を起こしたと推定される。

開発

がんばれるがたの原子爆弾がどのように設計されたのかはいまだに機密扱いとされており、その詳しい設計図に関しては公表されていない。一部にはリトルボーイはナチス製、もしくはそのコピーであったのではないか、という憶測も飛んでいるが定かではない。なぜこのようなことが言われているのかというと、アメリカがガンバレル型の開発を経緯がなく、当初よりプルトニウムを用いた爆縮式の実験を行っていたためという説を元に考えられた仮説となっている。当初の原爆構想はガンバレル型であり、プルトニウムと濃縮ウラニウム両方を材料としたシンマンとして開発が行われていた。1943年ごろ、プルトニウムの過早反応が認識されてからは、爆縮方式の設計が始まる。1944年7月後にはほぼ全面的にプルトニウム爆祝詞気に開発努力は移行するが、トリニティ実験までは爆発成功の確信がなく、既に爆弾設計としては完了しウラニウムの濃縮の進歩を待つのみとなっていたガンバレル型が予備として計画されたものとなっている。終戦間際にドイツ国内や潜水艦から押収されたウラニウムが広島原爆につかわれなかったとする根拠はないものの、量的には1939年の時点でカタンガからおよそ一千トンが搬入されたウラニウム鉱石が原料の大部分を占めている。

実験

1945年当時、この方式の検証のための核実験は行なわれていない。核実験による検証を経たのは、プルトニウムを使った爆縮奉仕区の物が1945年7月16日、アメリカニューメキシコ州アラモゴード近郊のアラモゴード爆撃試験場で行なわれただけとなっている。この試験場は現在、ホワイトサンズ・ミサイル実験場内トリニティ・サイトと呼ばれている。これは一般に、既にウラン235を使った核分裂試験が原子炉内で行なわれていたために核爆発を伴う検証そのものが不要であったとされているものの、実際はテストを行なうことで高濃縮ウランが不足してしまい、この方式の原子爆弾の戦線への投入に遅れが生じることを軍が嫌っていたのが真相となっている。

安全性

完成したガンバレル型の原子爆弾は、推進薬に点火すると必ず核爆発を起こしてしまうため、フェイルセーフが存在しないことから安全面という点で大きな問題を抱えていることが分かったために、現在は作られなくなったといわれている。このため、爆弾を搭載したB-29が墜落したり、何かのミスで問う構えに推進薬が展開したりするなど、万が一の場合に備えて、爆撃機に兵器係として原爆の技術者を同乗させて、その者が投下の前に手作業で砲身内に推進薬を詰め込むという安全策をとったほどだ。

例え推進薬区がなくとも墜落の衝撃によって砲弾部が標的部に突入すれば核爆発が発生してしまう可能性が非常に高く、海中に墜落すれば爆弾内に流入した水が減速材として働いて、臨界状態になる可能性もあったという。このために、海に落下すれば周囲一体を危険地域として閉鎖しなくなるといけない。これらの危険性を排除できるだけの安全装置の開発は不可能であるとされており、ガンバレル型自体が開発中止になる最たる原因となっている。

経緯

1945年

太平洋戦争中にアメリカが立ち上げたマンハッタン計画に基づき、アメリカ国内で製造。

  • 7月16日 - サンフランシスコにて重巡洋艦インディアナポリスに積載され、日本本土への爆撃機の基地であるテニアン島へ向け出港。
  • 7月25日 - トルーマン大統領、日本への原爆投下を決定。
  • 7月26日 - テニアン島到着。
  • 7月31日 - リトルボーイ組み立て完了。
  • 8月5日 - 爆撃機への搭載完了。投下に用いられた爆撃機はB-29であり、機名はエノラ・ゲイと名付けられる。
  • 8月6日午前8時15分(日本時間) - 広島県広島市の上空高度9,600mから投下され、細工町(現:広島市中区大手町)の島病院上空約600m(500mとも言われる)で爆発した。

焼失面積13,200,000平方メートル、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらした。爆心地の近くにあった広島県産業奨励館は、現在原爆ドームとして世界遺産に登録されている。

NO NUKES!!!!